「少しずつ何度でも人は変われる」
工藤 公康が語る仕事--2
経験は力の一部に過ぎない
モチベーションの影響は大きい
現役引退を言葉にしたのは48歳、東日本大震災が起きた年の11月でした。きっかけは被災地の子どもたちと出会い、惨状の中でも「野球をやりたい」という彼らを応援する側になろうと考えたからです。進退を決めかねていた僕は「やめる理由」を見つけました。数年後、専門医とのチームで野球少年たちのケガ予防などを主とした育成トレーニング計画が完成。いざスタートというその時、福岡ソフトバンクホークスから監督就任の要請を頂きました。
そして就任1年目の2015年、リーグ優勝と日本シリーズ優勝の連覇を果たせました。監督の役割はこれでいいのか、どうするべきものなのかも分からないまま、ただひたすら過去の経験と自らの野球観に頼って突っ走りました。現役時代の僕を応援してくれたファンの方々や王貞治会長への恩と期待にも応えたかった。その強いモチベーションが僕を支えていたのではないかと思います。
このモチベーションの大切さを初めて痛感したのは、高校を出て西武ライオンズ(現・埼玉西武ライオンズ)に入団して3年目、成績が振るわなかった頃のことです。当時の広岡達朗監督から「お前は俺の期待を裏切った」と、米カリフォルニア州のマイナーリーグ、サンノゼ・ビーズへの野球留学を言い渡されたのです。仲間と共にここへ入った僕は、日本の体質は甘いのだと心底驚きました。チームに所属していても10日でクビになることもある世界。
僕らは日本の球団がお金を保障してくれてチームにいられたのですが、僕が入ったことで別のピッチャーが1人いなくなりました。そんな厳しさに耐えながら彼らは諦めないんです。食事はほぼハンバーガーばかりで、お金がないため数人でアパートを借り、その一部屋で寝袋生活なのに「ここからはい上がってメジャーリーガーになる」と、高いモチベーションや夢を失わない。寮に住み、きちんと食事が出て、目の前はすぐ練習場の日本とは意識が違いました。強くなるためには個人のモチベーションが重要だとアメリカで痛感しました。
そこに自分のおごりはないか
留学体験で僕は「このままじゃダメだ」と自分なりのトレーニングを考えるようになりました。長く選手生活を続けられたのもその経験が積み重なったからだと思っています。練習を反復するからこそ技術や体力が向上し、その選手に合った適切な体の動きを身につけることでケガのリスクも減らすことができるという考え。選手たちに1日でも長く活躍してほしいという僕の強い願いがそこにはありました。それゆえに選手にいっそう練習を促し、次も連覇するんだと意気込んだのかもしれません。翌16年は最終的に逆転されて2位に甘んじました。
最後で力を出せないというのは、チームが一つになりきれていなかったからだと思います。個人が強くなれば勝てるという、僕の独りよがりの押しつけが出てしまったのではないかと反省しました。監督が上から指示を出せばコーチも選手も動いてはくれます。僕も「俺についてこい」とどこかで思っていたのでしょう。でも、それだけではチームが団結する結果にはならなかったのです。
監督は何をするべきなのか。どうにかして変わらなくてはなりませんでした。(談)