「青臭く仕事の原点を問おう」
國松 孝次が語る仕事―3
頼まれた役割を受けてみる
私自身の狙撃事件から新たな道が始まった
警察庁長官時代の1995年3月30日朝、私は、自宅前で不覚の銃撃を受け瀕死(ひんし)の重傷を負いました。その時、奇跡的な手術で命を救ってくれたのが、日本医科大学付属病院の救急医療に当たる2人の医師とスタッフです。
入院中、両医師が折々に話してくれたのは、「國松さんは東京で撃たれたから助かった。地方だったら難しかったかも知れません」ということ。そして、先進諸国では普及している救急医療用ヘリコプターの仕組みを、日本にも普及させる必要があるということでした。しかし、その課題が自分の身に降り掛かってくるとは思いもしませんでした。
それから2年後、両医師がNPO法人「救急ヘリ病院ネットワーク」を立ち上げたいので、私に理事長をと依頼にみえた。驚きはしましたが、命の恩人の要請です。そして、銃撃という事件に遭ったからこそ「救急医療」の大切さは身に染みています。お受けするのが天命だと思いました。ただ、その時はスイス大使赴任直前で、帰国する3年後ならと保留させていただいた。
何が起きるか予測できない人生ですが、私は命の危機を経験し、幸運にも復帰がかなった人間として、やるべき仕事を与えてもらったと思っています。自分が好きなことをするという選択もありますが、人から頼まれたことを天命と受け止めて力を尽くすのもまた、意味があるのではないでしょうか。
新米なりの動き方
スイス赴任から戻って2003年に、私は救急ヘリ病院ネットワークの理事長になりましたが、まずもって救急医療については全くの門外漢。右も左も分かりません(笑)。皆さんが転職なさった場合と全く同じです。
ちなみに、私が引き継いだ組織の現貯金額は99万円余りで、前の年の事業規模は280万円ほど。救急医療で少しでも多くの命を救いたいという高い志を実現するには、あまりにも基盤が弱かった。
そこで新米理事長が考えたのは、まず財務基盤を整えること、その上でNPO法人として身の丈にあった活動の方針をはっきりさせることでした。いわゆる企業のような営利活動はできないから、活動を理解してもらうために、説明をし、理解を求め、寄付金や助成金をお願いする。これがなかなか大変なことでした。それまでのご縁を頼りに、当時はスポンサー探しばかりに歩き回っていた記憶があります(笑)。それでも目的が社会のためであると明確なら、人は動いてくれる。そこを支えに地道にやるしかないことを学びました。
そのうちに、活動しながら、これは法制化の必要性があるのではないかということに気づきました。そこで、国会議員の方々にドクターヘリの基本法を作って欲しいとお願いして歩き、幸い有志の議員のご尽力により「ドクターヘリ特別措置法(救急医療用ヘリコプターを用いた救急医療の確保に関する特別措置法)」が成立しました。NPO法人というのはお金がないし、権限もありません。実に弱い存在なのです。でも、誠心誠意の努力をすれば予想以上の仕事ができることがあります。
仕事は、「組織と社会に何が必要か」と突き詰めて考えると、新しい展開が見えてきます。(談)