「恐れず新しい景色を見たい」
黒木瞳が語る仕事--1
野性味あふれた少女時代
故郷で走り回って育った
福岡県南部の自然が広がる田舎で育ちました。子どもの頃、家に田畑があり、畑仕事や田植えも稲刈りも楽しんで手伝い、飼っている牛の世話もしていました。田植えは父と一緒にやって、稲が実ると自分が刈る列を決め、腰をかがめてせっせと刈っていく。大人用の鎌だと大きすぎるので、母が子どもサイズの鎌を作ってくれましたが、その「マイ鎌」は俳優になってもずっと持っていました。
母はお店をやりながらバラや野菜を育て、牛の世話もし、色々な仕事をこなしながら4人の子どもを育て上げたのです。ある時「草刈り機で草を刈っていたら、今日ヘビを切った」と言うので私が驚いたら、「そんなこともあるよ」と。そういう出来事も危険だと捉えず、自然の中で生きていくためにはあるがままに、仕方がないことも受け入れて、母はたくましかったですね。私は裸足でどこでも走り回り、何をするのも面白く、野性味あふれる元気な末っ子でした。
小学4年生で剣道を始めました。父が7段だったので喜ばせたい気持ちもあったんです。ただ、体が小さいのでやっぱり普通の竹刀は長すぎて、マイ鎌の次は父手作りの竹刀です。私は足だけは早かったので、得意技はパッと踏み込んでパーンと打って逃げる「逃げ小手」。稽古場では女子は私一人だけで男子に面を打たれるとものすごく痛いから、小手だけ打って逃げるしかなかった(笑)。
どうすれば役者になれる?
映画もよく見ていましたが、演じることに触発されたのは中学2年生の頃。友人が文化祭で菊池寛の戯曲「父帰る」の娘役として舞台に立った時、お芝居って面白いと初めて思ったのです。でも田舎のことだから役者になる方法など分からない。
まず親を説得する必要があるから勉強して父に褒められ、いい高校に入って演劇部に入部しよう。演技を学んだら、学校の音楽の先生になって町の青年団などと一緒にお芝居ができたらいいなと考えたのですね。やろうと決めたら行動だとばかりに希望の高校で演劇部に入り、そこから県大会で初優勝して九州大会まで進みました。そして舞台の面白さを知ったその頃、大ブームになった宝塚歌劇団「ベルサイユのばら」の福岡公演を見たのです。自分でも信じられないくらい感激しました。
でも宝塚は夢のまた夢。登場人物が金髪の縦ロールにドレスですから、霞(かすみ)を食べているような人が行く世界だと思いましたが、高校3年の時にパンフレットの裏にある宝塚音楽学校の募集を知って電話をしてみたのです。入試の年齢制限は18歳で、私にとっては最後の機会だから思い出になればと気軽に願書を出しました。大学入学が決まったその1週間後が試験日で、付け焼き刃のクラシックバレエ練習をして受験。それが、現在演出を手がけている11月の舞台「甘くない話 ~ノン・ドサージュ~」に通じる舞台人生の始まりでした。(談)