「アートは営み、デザインは知恵」
中山 ダイスケが語る仕事--1
教育は素敵だ!
リターン・トゥ・スクール
美大を中退した後、現代美術作家として独立。1997年からニューヨークにスタジオを構え、立体作品や絵画などを創作したり、舞台美術などに携わったりしていました。そんな僕がなぜ、山形県にある東北芸術工科大学の教授職に就いたのか?
きっかけは2001年の9・11(アメリカ同時多発テロ)でした。間近で目撃し、あまりにも衝撃が大きすぎてしばらく何も手がつかなかった。それまでの僕は政治的な動きやイデオロギーとは全く無縁で、ひたすらアートの世界に没頭していました。でも9・11で自分もまた世界の一部でしかないと気づいた。初めて社会を意識するようになりました。
帰国し、自分のキャリアを改めて考える中でクリエーティブに対する捉え方も変わりました。特定の誰かに買ってもらったり評価されたりする作品作りではなく、もっと広く、多くの人に届くモノ、コト作りの方が社会的価値があるのではないかと。そう思い始めた頃から、個人や企業からデザインを依頼されるようになりました。その仕事を若いスタッフたちと一緒に進めていったわけですが、これが想像以上に楽しい。「どうやってそんなことを思いついたの?」と驚くほど彼らの発想は豊かで実にユニークなんです。
そうこうしているうちに母校から非常勤講師を頼まれました。ここでもまた若い学生たちから刺激を受けることが多かった。「教育っていいな」と思い始めた矢先、東北芸術工科大学から声がかかったんです。
アメリカに「リターン・トゥ・スクール」という言葉があります。しばらく働いた後、面白いことを見つけるともう一度勉強しに学校へ戻る。だから今、大学に居られることが素直にうれしい。教壇に立つことは僕にとっての「学び直し」です。面白いことを思いつく学生が目の前に何十人も居るわけですから、これ以上の学びの場はないと思っています。
山形に在ってローカルではない
僕が現在学長を務める芸工大は、山形県と山形市が開設し、学校法人によって運営される公設民営大学として92年に開学しました。ウリは、地方大学なのにほとんどの教員が東京などで活躍する現役のクリエーターだということ。つまり、山形に在りながらもローカルな大学ではない点が一番の特色です。
教員は実際に今、自分で手足を動かし、何かを生み出している人たち。そういった先生方と共に学生は、地域や企業から依頼されたデザイン案件に日々取り組んでいます。特にデザイン系の授業は、ほとんどがリアルな「相手」の課題を解決するための場です。例えば私の授業でも、鶴岡市の街の活性化プロジェクトを実施したり、新しい農業学校を造ったりしています。今や山形という地域全体がキャンパス。こんな美大、芸大は他にないと思います。
そもそもアーティスト活動だけをやっていた頃の僕は、教育から外れた所でどこかカッコイイことをしたがっていた。教育を受けて自分が育ったという思考、実感がなかった。でも今は違います。良い環境で良い教育を受けることが豊かな想像力と創造力を育てる。そう信じて日々学生たちと向き合っています。(談)