「新しい価値の根っこをつかもう」
中山 亮太郎が語る仕事--2
ベトナムで見えた日本
若い国の自国産業に着眼した
いつかは起業をという希望を持ち、IT企業に就職しました。早い内から仕事で新しい体験をしたくて積極的に手を挙げ、会社としてはまだ注力していない事業でナンバー2のポジションを得て、責任のある役割も約4年間経験。でも目指しているのは自分の会社を作ることですと、社内で意思表示をしているうちに、ベトナムでの投資事業のトップを任されることになりました。
海外事情に詳しいわけではなく、英語もそれほど得意ではなかったので、ベトナムに行くのはとても苦しい選択だろうなとは思っていました。ただ、そこを乗り越えられたら自分は絶対にレベルアップできるだろうと算段して、無謀でも飛び込んでみようと決めたのです。それまでもラクではない仕事を選んだ結果、得るものが大きかったという自分のスタイルを基準にしたと言えるかも知れません。
赴任した2010年当時のベトナムは、ソフトウェア分野の受託開発が大きな産業でした。エンジニアの数は驚くほど多く、しかもその質の高さは日本のレベルを超えるほど。でも十分な力があるのに、ずっと他国のインターネットサービスなどの下請けに甘んじている状況でした。ただ、彼らを知るようになると起業意欲の高い人もたくさんいて、僕は、ベトナムの実力でベトナム人自身が表に立った産業を作る、そのための投資をミッションにしようと決めました。
それは新たなネット産業です。ベンチャーキャピタリストとして資金はもちろん、外国のノウハウもどんどん移植していけば、自国独自のサービスが根づくための後押しをしていけると確信しました。およそ2年半現地に住み、ネット通販やネット広告、音楽配信サービスなどの有望なベンチャー企業に投資しましたが、この事業は非常にやりがいがあり、現在は数社がベトナム・ブランドとして大きく成長を果たしています。
ベトナムでは経済が発展しきる前にインターネットが現れ、その存在を前提に経済活動が組み立てられ始めている時期でした。そんなダイナミズムの渦中で少しは役に立てていると確かな手応えを感じていたのです。
日本製品がゼロに近い衝撃
充実した仕事の日々でしたが、僕はふと、現地でそろえたスマホもパソコンも日本製ではなく、アメリカや韓国のブランドだと気づいてショックを受けました。また、家電量販店などに行っても日本製品をほとんど見かけないのです。なぜだろうか。10万円近いスマホを持っている若者に、給料の3倍もするのにどうやって買ったのかと聞くと、親や友人に借金をしたと言う。僕はハッとしました。欲しければ、どんなに高くても人は買うのだと。
記憶にあるメイド・イン・ジャパンは、世界から信頼され売れていました。それは思い込みだったのか。売れない理由を考えると止まらなくなり、大量生産・大量消費が原因ではと思い至ります。消費者の生活や趣味が多様化している現状に応えられていないと。でも、アイデアのあるとがった製品を作る技術はあっても、世に出す仕組みがないと思うのです。何かできないか。ベトナムに暮らしながら、日本も元気にしたいという想(おも)いが強くなっていきました。(談)