「自分の本気を探し続けよう」
錦織 一清が語る仕事--1
10代で芽生えたプロ意識
個性を見守る育て方だった
高校生だった6歳年上の姉が僕をジャニーズ事務所の公募に応募し、オーディションを受けることになったのがそもそもの始まりです。当時の女子高校生はみんな、弟がいたら応募してみようよと楽しんでいたらしい。どうせ通るわけないと言っていたら連絡があり、何をするのかも分からないまま姉について行きました。
その場で踊る指示でしたが、経験もないので前で踊る人をまねて動いていたら、事務所代表のジャニー喜多川さんから「ユー、天才だね」と言われたことを覚えています。褒められたのはこの時が最初で最後だった気がしますが(笑)。小学6年でオーディションに受かったもののタレントになる気はなく、子どもの頃から体を動かすことが得意だったので、将来は体育教師を夢見ていました。ただ、初めて自分の体をうまく使いこなせなかった「踊りという運動」に出会って面白くなり、週末は事務所で行う踊りのレッスンに通い始めたのです。
僕はオーディションで体育の教師になりたいとはっきり希望を話したので、ジャニーさんはタレントやアーティストになれとは一言も言わず、自然体のまま受け入れてくれました。決して本人の思いを邪魔しないのです。その代わり僕たちを様々なショーや映画に連れて行って、どんな場面でゾクゾクし興味を抱いたか一人ひとりを観察していた気がします。きっと、若い僕たちそれぞれの個性を突き止め、その人らしく育てることに心を砕いてくれたのだと思います。
うまくできなきゃ駄目だと強く言われることはあまりなかったものの、「自分は頑張ってるんですけど」と言い訳をした途端にこう諭されました。「頑張るなんて当たり前。でも、お客さんは君たちの頑張りを見に来ているのではない。面白いか、楽しめるか、それを期待して来てくださるのだ」と。レッスンの厳しさは何のためか、プロフェッショナルとは何かを早くから教えてもらっていました。
それでも、この世界でやっていくと決意したのは高校生になってからです。硬派な僕はスパンコールの鉢巻きや白いパンツスタイルが恥ずかしかったけど(笑)。
可能性はグイグイ引き出す
アイドルグループ「少年隊」として歌手デビューしたのは1985年、20歳。それよりかなり前の16歳ごろから頻繁にロサンゼルスやニューヨークで踊りなどのレッスンを受けていました。ぜいたくなことに先生は、歌手マイケル・ジャクソンさんの曲「スリラー」などを手がけた振付師マイケル・ピータースさんですから驚きです。その他、日本でも一流の先生方ばかりから指導して頂いていた。難しい振り付けで切れよくスピーディーに踊り続け、それでも歌う場面では息切れ一つしないトレーニング。大人の本気が注ぎ込まれていたんです。
演出するジャニーさんは時々、ステージ本番前にいきなり曲目を変更することもありました。しっかり練習を重ねて構成されているのに変えられたら、僕らはパニックになりますよ。でも「それを何とか乗り越えようとする人間性は必ず客席に伝わっている。感動を生む」と言うのです。固定観念に揺さぶりをかけ、可能性を引き出すことに懸けている人でした。(談)