「失意からでも仕事の芽は育つ」
佐川 友彦が語る仕事--1
順調だったはずなのに
環境問題を進路の真ん中に
小学3年の頃でした。ある環境問題を扱う絵本を読んで、地球に寿命があるかも知れないと知ってショックを受け、将来の夢はこの地球を守ることとしました。当時の文集には子どもらしく環境大臣になると書き残しています。中学時代は何をするでもなく、ただのさえない卓球部の一人部長でしたが、新顧問に県で一番と言われる熱血先生が赴任してきて、私は猛烈な練習に熱中することに。「本気になるって充実感がある」。それは初めてつかんだ感覚でした。
熱中する手応えを知って高校ではガリ勉し、夢だった環境問題を学ぼうと東京大学を目指して農学部へ進学します。ここで面白い同級生たちと「環境問題クイズ5000問」という携帯サイトを作るプロジェクトに参画しました。環境省と東大、そしてモバイルコンテンツ企業が協力して、環境省の公式サイトで配信した「みんなでエコトレ!」です。
私はこのお陰でプログラミングをゼロから学び、ITの有用性を知り、企画運営のスキルも手にしました。未体験のことでも、そこに飛び込んでから必要な勉強をすればいい。武器はそこで拾えるものだと知ります。
それでも、実は公務員志望だったのでビジネスや経済には関心が薄かった。民間企業の就職活動は社会経験だと割り切ってしぶしぶ始めたのですが、世の中には数多くの面白いビジネスがあって、経済が価値を循環させているんだと気づきます。環境問題に貢献することはビジネスでもアプローチできると。そうして、再生エネルギーに関する環境ビジネスにも力を入れている化学メーカー、外資系のデュポン社に就職。子どもの頃からの夢へ踏み出したのです。
先端技術研究所に配属された私の担当は太陽電池パネルの部材でした。この頃、国の主導で100社を超える企業が結集して太陽光発電の共同研究がスタートし、デュポンからは新卒の私がプロジェクトの代表を任されました。若い社員に機会を与えてくれる社風もありがたく、また、様々な企業の人員がチームとなって進む過程はとても刺激的な体験でした。
期待に応えられない壁があった
こうして2年間の研究が続き、成果報告をする時がやってきましたが、ビジネス視点で見るといい結果とは言えない状況でした。思えば、私はまだ太陽電池について知識の深さが十分ではなく、また、利害が異なる組織の間に立ってプロジェクトを好転させることもままなりません。責任を感じて残業や休日出勤を重ね、ストレスで胸が苦しくなる日々でした。
そんなある日、自宅でパソコンに向かっていたら涙が止まらないのです。気持ちが折れてしまったのでしょう。ひとまず休職し、3カ月後に復帰するとプロジェクトの実情はさらに悪化しており、私はダメージが深く2度目の休職へ、そして1年後に退職。子どもの頃からの夢を努力してかなえた仕事を失いました。まだ20代、挫折感はとても大きなものでした。
でも、ゆっくりと自由な時間を過ごし、好きなことを勉強しているうちに社会復帰を考え始めます。やっぱり目指すは環境問題。世の中に貢献したいという思いは変わりませんでした。(談)