「できることを掛け算していく」
酒井 美紀が語る仕事--2
清純なイメージが重い
成長を目指せば壁はある
俳優を夢見てタレント養成所に入ったのは小学校6年生の時でした。その後、東京の芸能事務所からスカウトされて故郷の静岡市でテレビ番組に出演し、高校生活を続けながらCDデビュー、そして映画やドラマへと幸運なスタートを切りました。当初事務所から付けられたキャッチコピーは「天然純水派」。髪も染めず、ナチュラルなイメージでした。
多忙な日々でしたが、東京への大学進学を決心して受験勉強を始めます。一番の課題は小論文。高校の先生が毎日ロケ先のホテルへファクスで課題とする「天声人語」を送ってくださり、私もファクス返送し添削して頂く。そのやり取りを数カ月も続けてくださいました。無事に入学した大学の経営学部では、興味があったパソコンや経営の基礎などを学びつつ仕事とも両立できた4年の年月でした。
ただ、俳優としては20代になったら様々な役に挑戦したいと思っていたのに、ほとんど今までと違うイメージにはキャスティングされません。自分は大人として成長してきている、でもピュアで清純な役柄しか求められない。このままでいいのだろうかと悩みました。20代後半ごろには、生身の自分と役柄との隔たりを一層強く感じ始め、そこから抜け出したいと葛藤を抱くようになりましたが、解決方法は分からないままでした。
それでも俳優の仕事とは別に、21歳ごろから声をかけて頂いたバラエティー番組では、人生初のいくつもの体験をしました。例えばタイ奥地の村を訪れ、自分でホームステイをお願いして数日間生活させてもらうという突撃体験。スタッフが先に手配しているのではなく、全て私自身が通訳なしで交渉するのです。最初は断られ本当に心細くオロオロしましたが、そのプロセスが番組になっていく。村では穀物や野菜を育てており、タンパク質源は昆虫などで、私もその家族と一緒に毎日森に出かけて行き捕らえて食べていました。
本当に少しずつですが、自分にできるジャンルが広がっていったうれしさや、世界はどこまでも多様だと体で感じた記憶は忘れられません。
成長を目指せば壁はある
こうして、デビューしてから高校、大学を通して学業も仕事も頑張り続けてきた私は働き詰めでした。プライベートで1週間の休みを取ったこともありません。だから、自分を見つめ直したい、解放したい、もっと英語を学びたいといった思いが抑えきれなくなっていたのです。デビューしておよそ10年目、事務所に長期の米国留学を願い出ました。何年か前には却下されていたのですが、この時は「私の人生だ」とついに反対を押し切りました。
たった一人でニューヨーク生活をスタートした1カ月くらいは、住まい探しや銀行口座開設などに要領を得ず苦戦。でも、交際範囲が広がっていくうちに元看護師だった日本人女性と出会います。彼女は日本総領事館からサポートを頼まれ、渡米して心臓移植を待つ日本人ご家族の生活をケアなさっていた。私もぜひお手伝いしたいと友人たちに声をかけ、「ハート・トゥ・ハート」というボランティアグループを設立します。そうして、仕事と共にボランティア活動も人生の柱だと気づきました。(談)