「やりきって次の答えを見つけよ」
白石 和彌が語る仕事--1
冷静に映画を見た子ども
招待券で映画館通いの幸運
北海道旭川市の街なかに祖父母が営む食堂があり、その近くに住んでいました。幹線道路沿いでバス停に人が並ぶ目の前だったから、映画館の人たちがよくポスターを貼りに来て、2枚だけ招待券を置いていくんです。その度に小学生の頃から僕は、祖母や母に連れられて月に1本か2カ月に1本くらいのペースで洋画を中心に見ていました。たぶん普通の人よりは劇場で見る機会が多かったと思います。
祖母と見た『リーサル・ウェポン』では、冒頭で裸に近い金髪の女の人が出てきて、飛び降りて死んじゃうみたいなシーンだったんです。中学生だったから「はあ!?」となって、パッと横の祖母を見たら「失敗した、この映画……」みたいな顔をしてた(笑)。僕がそのシーンの瞬間に祖母の顔を見たのは、これが「気まずい」ってことだなと察して冷めていたからだと思うんですね。そういう何とも言えない感情の経験がたまらなくて映画を好きになっていきました。
子どもながらに、物語はこんなふうに作るのかと冷静に受け止めていた中学生の頃、家にビデオデッキが入ってきて、レンタルビデオで日本映画もたくさん見始めます。映画雑誌を読むと撮影現場の風景や裏側の話が掲載されている。当然、映画の向こうには作り手がいて、大勢で毎日学園祭みたいじゃないかと。こんなに楽しいことをして食べている人たちがいるなら、いつか僕もと思うようになっていたのです。
やがて高校を出て映像技術系の専門学校を卒業するのですが、当時の北海道は経済状況が悪化していて就職先がなく、上京して中村幻児監督が主宰する「映像塾」に参加しました。ワークショップのように映像制作をしながら学んでいくのですが、同級生と言っても社会人がとても多く40歳くらいの人もいて、信じられないようなシネフィル、つまり映画狂がいるんです。彼らはビデオを貸してくれる、名画座に誘ってくれるなど僕の師匠のようでした。
助監督時代が始まった
また、この映像塾には現役である若松孝二、深作欣二、崔洋一といった監督たちが教えに来てくれていました。ある日、若松監督が「Vシネマを撮るが現場に助監督が一人しかいない。誰か手伝えるやつはいるか」と言うので、僕はすぐ「行きます」と手を挙げ、それがプロの制作現場に入った最初になりました。
助監督という仕事は学園祭の段取り担当のようなもので、「お前はこれを買い出しに行って、その帰りはここに寄って、戻ったらあれしてこれして」と指示を出す。僕は高校時代から段取りが得意だったので仕事は苦になりません。ただ監督は、普段は気遣いがこまやかで優しいのに、撮影現場に行くと人が変わったように怒鳴り理不尽なことだらけ。でも終わると回転ずしを食べに連れていってくれる、天才的に人たらしでした。
映画が完成したある日、飲みに連れられていった時のこと。「お前、誰かぶっ殺したいやつとかいないのか? それを書いたらすぐ映画ができるよ」と言われたのです。僕はそんな人を思いつかない。じゃあ映画を作るとはどういうことか、自分への課題の始まりでした。(談)