「やりきって次の答えを見つけよ」
白石 和彌が語る仕事--2
蓄積が気を吐く日は来る
普通の自分が監督になれるのか
祖父母が営む食堂に映画館の方が上映ポスターを貼りに来て、よく招待券を置いていきました。子どもの僕は、祖母らに連れられ2カ月に1、2度は洋画を中心に見て映画好きになっていったのです。やがて映画を作る世界に興味が湧き、北海道から上京して「映像塾」という映画制作を学ぶ場に参加します。そして特別講師に来ていた若松孝二監督の助監督として、実際の現場に足を踏み入れていきました。
最初の作品についた後すぐ、新宿ゴールデン街で酔った若松監督が僕に「お前、誰かぶっ殺したいやつはいるか? それを書いたらすぐ映画を作れる」と吹き込みました。監督になるにはそんな相手がいない自分ではダメなのか。そう言えば知っている監督たちは、すさまじいほどの努力家や、他人には理解できない感性で評価される天才と呼ばれる人たちです。僕のような普通の人間に監督は無理だと感じましたね。
ただ、現場で撮影の段取りをする助監督は肌に合い、フリーで多くの監督とも仕事ができて面白みを見いだしました。これでしばらく人生を歩いていこうと忙しく働いていたのですが、10年ほど助監督として働くと仕事も次第にルーチンになってしまい、もう監督になるチャンスもないなと考えていたのです。ですが、ある監督の助監督をしてその思いがひっくり返りました。
僕は、10年以上携わって映画制作のイロハが少しずつ分かってきた時期です。ところがその監督はひどい人だった。短編を3日で撮る仕事でしたが、予算がなくて人手が足りないのは仕方ないとして、僕や他のスタッフが撮影を終えてからも夜な夜な翌日の準備を寝ないでしているのに、監督は太鼓持ちの役者たちに囲まれながら「あいつ寝ないでよく働けるよね」と皆で笑ったんです。その時「俺なんでこんな人のために一生懸命やってるんだろう?」って殺意すら感じました。
怒りが僕の壁を破った
人間性のひどさに腹を立てましたが、この監督の作品は結局つまらなかった。でもその反動で「こいつより俺は面白いものを撮れる」と思ったんですね(笑)。この時から、助監督にぼつぼつけりをつけて監督になる準備をしようと考え、助監督の仕事はキッパリやめて「監督になります!」とあちこちに宣言し始めました。
すると僕の働き方を見ていてくれた映画プロデューサーが、映画の企画開発をうちの会社でやらないかと誘ってくれたのです。こうして一転、今まで寝る間もなく撮影現場で働いていたのが急に朝9時から夕方5時までのデスクワークとなり、原作や脚本を読んで、脚本作りの打ち合わせばかりに出る仕事になりました。
そして同じ立場の仲間と飲みながら、映画の企画や脚本作りとは何か、同じ目線で毎日のように時間を忘れて話し、考えました。脚本は緻密(ちみつ)な設計が必要で、構成が大切なんだということなどを映画の世界に入って十何年かでようやく実感を伴って学び始めたのです。それを教えてくれた仲間たちが、今では僕の映画の脚本家として参加してもらっている池上純哉さんと髙橋泉さんで、今思うと幸運な出会いとなりました。
「監督になる」。自分の望みをオープンにしたら、前へ進めるのだと思います。(談)