「やりきって次の答えを見つけよ」
白石 和彌が語る仕事--3
自作を一度は完成させる
仲間に背を押されたデビュー
映画の制作現場で10年ほど助監督として働くうちに仕事も次第にルーチンになり、監督へのチャンスもないなと考えていた頃、その思いがくつがえる事が起きました。助監督についたある監督のスタッフへの扱いがひどく、しかも作品はつまらなかった。その反動で「こいつより俺は面白いものを撮れる」と思い、監督になる宣言をしたのです。
そして、ある映画プロデューサーの誘いで映画の企画開発の仕事に就くことになり、ここで優れた2人の脚本家と出会って脚本の緻密(ちみつ)な設計や構成を学び始めます。また助監督時代から僕の仕事を知っていてくれたプロデューサーが、白石をデビューさせようと面白い原作本を提示してくれました。これはぜひやりたい。脚本家の髙橋泉さんとシナリオを作り始め、制作に向けて取材にも出かけて、1年半ほどかけて十何稿かを形にし手応えを感じていました。
その頃、この本の作者が別の作品で直木賞を取ったんです。追い風だと思いました。ところが原作者は「これは私にとって大事な本なので、映像化したくありません」と言い、ある日突然、話が消えてしまった。ああ、運がないなと落胆しましたね。ちょうど勤務先との契約も終了時期になり、フリーに戻るタイミングでした。子どもも生まれたし、もう映画界の仕事をやめようと腹を決めたのです。
でも、そのプロデューサーは今回の映像化が成立しなかったことを残念がって、自主映画でもいいからお前が撮りたいものを一回作れと提案してくれました。「ついては300万円だけ出す」と。そうして完成したのがデビュー作『ロストパラダイス・イン・トーキョー』、青春物語です。公開まで2年くらいかかりました。これまで一緒に仕事をしてきた人たちと作ったのですが、たぶんそれぞれみんな赤字です。でも僕には「いや足りたよ」と言ってくれる。うれしかった、背中を押してもらいましたね。
ついに撮りたい映画が分かった
撮り終わったら、次の監督の仕事などすぐにはありませんから、アルバイトをするしかないと近所のスーパーへ面接に行ったのですが、落ちた(笑)。妻が仕事をしてくれて僕が娘の世話をする年月で、30代半ばでした。ある日、デビュー作を見てくれた赤城聡さんというプロデューサーから、「白石さんとどうしても一本作りたい」と連絡が来て次の作品へつながりました。完成したのは、実際の殺人事件を基にした映画『凶悪』で、2014年に日本アカデミー賞優秀監督賞をもらいました。
この作品で僕は、血のりまみれの暴力シーンも撮ったんです。その演出に半ば疑問を持ちながら現場に突入していったら、すごく自分の肌に合っていると感じました。人の生き死にを軽んじているわけではなく、人間がギリギリのところで生きる姿を描写することに手応えがあった。なぜなら、本当は純粋だった人たちが会社や組織のために悪に手を染めざるを得なくなり、弱者が組織に切り捨てられる現実があるからです。
映画を作ることで、社会に潜む問題を表現することが自分らしいのだとはっきり分かった。「俺はこっちだ、やっぱり。青春映画じゃない」と確信しました。(談)