「人の暮らしを一歩でも前へ」
田中 修治が語る仕事--1
もっと合理的に考える
勤めるという気持ちはなかった
埼玉県所沢市の商店街近くで育ちました。父の親族は皆自衛隊勤務で、スーツとネクタイで電車通勤する大人が周囲にはほとんどおらず、その働き方は僕にとって現実的ではなかった。だから大人になったら自分の力で何かを手がけ、その対価を得て生きていこうと考え、それが今でも仕事の概念になっています。
そうは言っても、子どもの頃はアイドルになろうと思っていたし、中学時代はボクサーの辰吉丈一郎に影響されてボクシングを始め、当然「世界チャンピオンになるぞ」と練習に励んでいました。でもそれはどうやら難しいと分かってから、様々な仕事を自分で考えてビジネスに関わっていくようになったのです。飲食店や、何店舗かの携帯ショップなどをフランチャイズで経営しましたが、詐欺のような商法に翻弄(ほんろう)されていたと気づいた時には、負債が2億数千万円にまで膨れ上がっていました。
まだ25歳です、落ち込みました。しかしその頃IT分野の台頭があって、若い起業家たちが目の覚めるようなビジネスを立ち上げて活躍していた。崖っぷちにいる自分も、所沢から六本木へ移って仕事をしたいとすぐに行動。ウェブ全般を請け負う会社を作り、時代の波に乗って経営は順調に推移し、負債は完済することができたのです。一方で仕事を通して知り合った企業の経営や再生の相談が持ち込まれ、それがまた投資コンサルタントという働き方となって、役割が増えていきました。
僕は、どんな問題でも自分なりに考えて答えを出したい性分です。だから従来のやり方で失敗しかけているなら、足を引っ張っている部分を見極め、時には切り捨て、生かせることに着眼すべきだと思ってきた。そして30歳のある時、それが自分事として目の前に迫ってきたのです。
経営難のメガネチェーンはどうか
投資コンサルタントとして委ねられた案件。それがメガネの製造販売を手がけ、小売りチェーンを展開しているオンデーズでした。年商は約20億円、しかし負債が14億円ほどあります。どこへかけ合っても、この負債額では倒産が近いだろうという判断で断られ続けていました。
やっぱり引き取り手はないかと諦めつつ、僕は待てよと思ったんですね。確かに負債14億円は大きい。でも毎年20億円を売り上げている実力はある。負債を増やさず、きちんと売り上げをキープすれば毎年、負債の割合は減っていく。20億円の稼ぐ力を切り捨てるのは惜しいと。僕が引き受けてみようか、そう気持ちが動きました。周囲はやめておけの大合唱。僕にも自信があったわけではありません。でも、何らかの理由で負債があっても、この会社は今も稼ぐ力を持っている。それなら自分が再生に挑んでみたい。無謀と言われつつ、無謀なことを決心しました。
こうしてオンデーズの社長になったのは2008年、30歳です。僕は日本国内に点在する店舗を回り、ほとんどのスタッフから話を聞きました。みんな、お客さんの役に立ちたい、でも会社の待遇には納得できずモヤモヤしている。一番感じたのは、スタッフに頼っていて日本的だということ。合理的な仕組みで解決できるという予感がしました。(談)