「故郷から本気で世界を狙う」
トリル・ダイナスティが語る仕事--1
目的探しは時間がかかる
野球少年の痛い挫折
ヒップホップのジャンルで作曲と音楽プロデュースの仕事をしていて、故郷の茨城県でずっと暮らし、地元を拠点として海外と日本のアーティストに楽曲を提供し続けています。今はヒップホップの本場であるアメリカのヒットチャートで成果を出せるようになりましたが、最初から音楽の世界を目指していたわけではありませんでした。
僕は、周囲に田んぼが広がる自然豊かな土地で生まれ育ちました。自分では普通の子どもだったと思います、親は時々学校から呼び出されていたみたいですが。水泳や体操などをいくつか習い、小学1年から始めた野球が他よりはしっくりきて中学高校でもやめずに続けていました。そして大学に入るとプロの野球コーチの指導があって、これはすごいぞと僕は初めて本気を出したのです。
でもその結果、故障により野球は続けられず、大学を中退して、インポート服を扱う店でアルバイトをしながら貧乏生活をしていました。ところがそこの店長が、安いバイト代の代わりなのか中古のDJセットをくれたんです。その頃の僕はヒップホップ音楽は耳にしていましたが、DJには全く憧れも興味もない。ただ、せっかくだからと本当に渋々DJをやり始めました。
やがて3年ほどで大きなイベントも経験し、僕がクラブなどで演奏した音源もミックスCDとして販売され、DJとしてそれなりに認められていました。でもつまらなかった。クラブでお客さんに踊ってもらうのは自分にしかできない仕事なのか。そう言えば今までだってずっと受け身だったな、そんな思いが消えずDJも音楽もやめるつもりでした。
アメリカへ直接アプローチ構想
これからは普通に仕事をして生活すると音楽仲間たちに話した時でした。「トリル君が作曲したらきっとすごいものができる、作ってよ」と言ってくれたんです。しょうがないな、やるかと、また受け身のパターンで作曲と向き合うことにしたのですね。今でこそとても楽しいし自発的にやっていますが、こうして誰かが背中を押してくれるから、前へ進めるものなのかもしれません。
ただ、僕は体育会系だったし、音楽は好きで聴いていた程度で楽器を習ったこともありません。DJの仕事は感覚的な音楽の勘やリズム感で勝負できたのだと思いますが、音符が読めず楽器も弾けないまま作曲を始めたのです。二十五、六歳になってからのヒップホップ音楽の作曲は、この世界では遅いスタートですが、それでも3年近くその音楽がある環境にはいたのです。
それまでは、その場の勢いで見切り発車して時間ばかり費やしたという経験があったので、今度はもっとイメージをしっかり描くことにしました。その構想の基本は、日本を通り越してヒップホップの本場アメリカへ直接アプローチすること。ではどうするか。作った曲を自分一人で海外に発信してもどこにも引っかからないだろうから、僕が好きなアーティストの曲を作っている現地作曲家と一緒になってアプローチし、可能性を広げようと。まあ人任せのようですが、はっきりとゴールをイメージできたのです。(談)