「故郷から本気で世界を狙う」
トリル・ダイナスティが語る仕事--2
正義感で加速した作曲
電子機材ではなく鍵盤でいく
生まれ故郷を拠点に、ヒップホップの楽曲を海外と日本のアーティストに提供する作曲と音楽プロデュースを仕事にしています。大学までは野球ばかりでしたがけがで挫折。もらったDJセットがきっかけで思いがけずDJとなり、「曲を作ってよ」という仲間の一言から、何とか役に立ちたいと初めて作曲というものに真剣に向き合いました。でも、いつ芽が出るか分からないままコツコツ続けても仕方ないので、まずゴールをイメージすることにしたのです。
そこで僕は、いきなりですがヒップホップの本場アメリカの作曲家にアプローチしようと考えました。一人の知り合いもなく英語もできないけれど、今まで聴いてきた好きな曲の作曲者は分かります。その人にSNSを通じて楽曲と、ウェブサイトで翻訳したメッセージを送る作戦です。いい曲だと思ってもらえたらチャンスをつかめる。日本ではまだ誰もやっていないようでしたが、僕はこの方法なら結果にひも付けられるはずだと動き始めました。
日本でさえ実績がないのになぜ直接アメリカかと言えば、向こうでは誰も僕を知らないし、たとえ英語で冷たい返事がきても判断されたのは送った楽曲だけ。日本語で僕自身を酷評されるつらさはないし、生意気だなんていう耳障りな声も聞こえてこないでしょう。だから、ただ直球を投げるのみです。もちろん、自分にしか作れないオリジナリティーで勝負するつもりでした。
ヒップホップ音楽は、パソコンを使った音楽機材でドラムのリズムやサンプル曲を思うように編集して作ることが主流です。でも、機械のボタンを操作すればそれらしい雰囲気にできるような曲は作りたくなかった。例えば、僕の好きな作曲家の一人で音楽プロデューサーでもあるゼイトーベンは弦楽器やピアノなどを弾きこなし、音楽的な素養を感じさせるヒップホップの名曲を作っていました。また、教会のオルガニストからヒップホップの道に入り、鍵盤を生かして哀愁漂う曲を作るムークという作曲家の影響も大きかった。僕も鍵盤で作曲しようと心は決まっていました。
ひたすら作り送った1日20曲
とはいえ、かっこよく自分流を決めても、僕は音符が読めず楽器も弾けない。その上まず機材がない。最初は白鍵盤が20余りのちっちゃなキーボードを9千円くらいで買い、小型パソコンとスピーカーを量販店のセールで手に入れました。そして鍵盤にはドレミが分かるようにシールを貼り、本業にしていた日中の仕事が終わってから明け方まで曲を作っていましたね。でも慣れないことだし、全く進まない日もありました。
ところが、後輩の音楽仲間たちが立て続けに捕まる事態が起きた。住んでいた田舎ではやりたいことが思うようにできず、そのうっぷんから悪さをしたのです。とても悔しかったですね。そんな状況から彼らが抜け出せるチャンスを作りたいと正義感のような気持ちが強く湧いてきました。そのために自分が早く力をつけよう、グズグズしている時間はないと海外に送る曲作りが加速していきました。そしてSNSでムークに僕の楽曲のリンクと、「一緒にやりたい」というメッセージを添えて1日20曲近く送り始めたのです。(談)