「直感を掘り下げよう」
横川 正紀が語る仕事--1
人と比較ばかりした日々
「得意がない」と長く迷った
小学校3年までは引っ越しが続き、2年ごとに家を変わるような状況でした。友だちができてもすぐお別れだし、弟と妹がいて母も忙しかったので習い事にも行けず、何かに集中するという時間が尻切れで終わる感覚でした。今思えば様々な場所での体験が自分のコミュニケーション能力に役立っているのですが、その頃はネガティブにしか捉えられませんでした。
やっと落ち着いて、父が東京都国立市に家を建てた時は10歳。でも自分が人と比べても得意分野がないと感じていて、どうしても自信が持てないのです。クラスの人気者の後ろをついていったり、何かが上手な子の横で2番手をやったりすることが多く、中学生の時に先生から「お前は金魚のフンか」などと言われひどく腹が立ちました。しかし奮起したいと思うものの人と比較するばかりで、自分の強みが見えなかったのです。
やがて進学の時期に「高校に行きたくない」と父に言ってみたら、「行かなくていいよ、好きにしろ」「当然だけど家も出てけよ」と。その時「お前は何がやりたいんだ?」と聞かれ、初めて自分の気持ちを考えました。インテリアデザイナーという言葉が世に出始めた時代。部屋の模様替えなどが好きだったので、建築学科へ行けばいいのかと東京工業大学の付属高校へ入学しますが、これがまた思惑違い。自分の下調べ不足ですが、学びたかったデザインではなく建築の基礎基本としての構造や歴史の授業が中心だったので、また学校がつまらなくなってしまった。まだまだ迷い道の途中でした。
もう一度やめたいと言えば本当にやめるしかないと思い、「一年だけ休みたい。海外が気になる」と父に頼み込みました。僕のイメージでは行き先はアメリカのロサンゼルスでしたが、縁をもらったのはオーストラリアの人口6千人ほどの静かな小さな町。そしてこの高校留学が、自分を見つめ直す僕の一つの起点となりました。
自分が引かれるままに動こう
当時は級友から「日本の総理大臣ってどんな人?」と聞かれても答えられなかった。先生に「日本食をみんなに振る舞って」と提案され、何も作った経験がないまま実家から食材を送ってもらい、申し訳ない味のみそ汁や衣ボテボテの天ぷらを食べてもらいました。やがてみんなが「日本っていいね」と言ってくれることを不思議に思いながら、それまでは日本が嫌い、自分自身も嫌い、学校も嫌いと全てがどうにもつまらなくて、他人が持っているものにしか魅力を感じなかった僕が、ここでやっと、そんな「ないものねだり」の自分に気づいたのです。
帰国後は日本を知りたくて、また単純な発想で古都京都に住もうと思い立ち、ずっとやりたかったデザインも学ぼうと京都の美術大学の建築学科を選びます。膨らむ想像では、風流な石畳の町家が並ぶ2階に下宿するつもりが、現実は現代的な街のワンルームのアパートだった(笑)。僕は今でもイメージ先行で全くリサーチをしないのですが、自分がどう感じるかなと想像をたくましくして、まずやってみようと直感で動いてきました。違ったらそこからまた学べばいい、そんな「僕流」の仕事力はこの京都で培われていきました。それを次回、詳しくお伝えします。(談)