朝日新聞紹介
歴史から日常まで、多彩な切り口で楽しめるのが朝日新聞です。
東京帝大講師で教授が目前だった夏目漱石が、東京朝日新聞社に転職したのは40歳のときだった。「創作に専念したい」という強い思いからだ。 だが、権威ある地位、安定した職場を放り投げ、当時はベンチャー企業といってもいい新聞社に、中年すぎからの転職である。 覚悟がいる。条件を詰めねばならない。漱石は弟子を介し、こまかい取り決めを問い合わせた。
中には何故(なにゆえ)だと聞くものがある。大決断だと褒めるものがある。大学をやめて新聞屋になる事がさほどに不思議な現象とは思わなかった。余が新聞屋として成功するかせぬかは固(もと)より疑問である。成功せぬ事を予期して十余年の径路を一朝に転じたのを無謀だといって驚くなら尤(もっとも)である。かく申す本人すらその点については驚いている。しかしながら大学の様な栄誉ある位置を抛(なげう)って、新聞屋になったから驚くというならば、やめて貰(もら)いたい。大学は名誉ある学者の巣を喰(く)っている所かも知れない。尊敬に価する教授や博士が穴籠(あなごも)りをしている所かも知れない。二三十年辛抱すれば勅任官になれる所かも知れない。その他色々便宜のある所かも知れない。なるほどそう考えて見ると結構な所である。赤門を潜(くぐ)り込んで、講座へ這(は)い上(あが)ろうとする候補者は――勘定して見ないから、幾人あるか分らないが、一々聞いて歩いたらよほどひまを潰す位に多いだろう。大学の結構な事はそれでも分る。余も至極御同意である。しかし御同意というのは大学が結構な所であるという事に御同意を表(ひょう)したのみで、新聞屋が不結構な職業であるという事に賛成の意を表したんだと早合点をしてはいけない。
商売でなければ、教授や博士になりたがる必要はなかろう。月俸を上げてもらう必要はなかろう。勅任官になる必要はなかろう。新聞が商売である如(ごと)く大学も商売である。新聞が下卑た商売であれば大学も下卑た商売である。ただ個人として営業しているのと、御上(おかみ)で御営業になるのとの差だけである。
特別の恩命をもって洋行を仰つけられた二年の倍を義務年限とするとこの四月で丁度(ちょうど)年期はあける訳(わけ)になる。年期はあけても食えなければ、いつまでも嚙(かじ)りつき獅嚙(しが)みつき、死んでも離れないつもりでもあった。ところへ突然朝日新聞から入社せぬかという相談を受けた。担任の仕事はと聞くとただ文芸に関する作物(さくぶつ)を適宜の量に適宜の時に供給すればよいとの事である。文芸上の述作を生命とする余にとってこれほど難有(ありがた)い事はない、これほど心持ちのよい待遇はない、これほど名誉な職業はない。成功するか、しないかなどと考えていられるものじゃない。博士や教授や勅任官などの事を念頭にかけて、うんうん、きゅうきゅういっていられるものじゃない。
余の講義のまずかったのも半分はこの犬のためである。学力が足らないからだなどとは決して思わない。学生には御気の毒であるが、全く犬のせいだから、不平はそっちへ持って行って頂きたい。
大学で一番心持ちの善(よ)かったのは図書館の閲覧室で新着の雑誌などを見る時であった。しかし多忙で思う様にこれを利用する事が出来なかったのは残念至極である。しかも余が閲覧室へ這入ると隣室にいる館員が、無暗(むやみ)に大きな声で話をする、笑う、ふざける。清興(せいきょう)を妨げる事は莫大(ばくだい)であった。ある時余は坪井学長に書面を奉って、恐れながら御成敗を願った。学長は取り合われなかった。余の講義のまずかったのは半分はこれがためである。学生には御気の毒だが、図書館と学長がわるいのだから、不平があるならそっちへ持って行って貰いたい。余の学力が足らんのだと思われては甚だ迷惑である。
歴史から日常まで、多彩な切り口で楽しめるのが朝日新聞です。