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天声人語の歴史
中断・改題経て1世紀

毎日、決まって1面の定位置に掲載される天声人語。だが、過去には中断や改題もあり、道のりは平坦(へいたん)ではなかった。その歴史をひもといてみると――。
天声人語が紙面に初めて登場したのは、日露戦争が始まる直前の1904(明治37)年1月5日。記者として活躍した西村天囚(てんしゅう)が命名した。大阪で発行される紙面(大阪朝日)でのみ掲載が始まり、段落を区切る印は、現在の「▼」の逆の「▲」だった。
当初、掲載は1面のときもあれば2面に移るときもあった。掲載は同年2月に中断、3月に復活し、1940(昭和15)年8月末まで続いた。昭和の初めには、永井瓢斎(ひょうさい)による俳句を添えた天声人語が好評を博した。東京朝日の紙面では、大阪朝日の天声人語に相当する常設コラムとして1913(大正2)年に「東人西人」がスタート。
大阪の天声人語と、東京の東人西人は同年9月1日、「有題無題」に統一された。戦争が激しくなるなか、さらに43(昭和18)年1月1日、軍国調の「神風賦」に改題された。天声人語の名が復活したのは敗戦翌月の45(昭和20)年9月6日。以後、いまに至るまで、継続している。
敗戦直後は、論説主幹などを務めた嘉治隆一ら数人で書いていたが、翌年4月から、社会部長などを務めた荒垣秀雄が執筆。担当期間は63年までの17年に及んだ。以後、入江徳郎(~70年)▽疋田桂一郎(~73年)▽▽深代惇郎(じゅんろう)(~75年)▽辰濃和男(~88年)▽白井健策(~95年)▽栗田亘(~2001年)▽小池民男(~04年)▽高橋郁男(~07年)と続いた。07年からは、冨永格(ただし)と福島申二の2人による執筆となり、13年以降は、福島と根本清樹が担当。16年4月からは山中季広と有田哲文が筆を執っている。
「天声人語」の変遷と主なできごと

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